ま、いいか。

通路が狭く、左右それぞれのレジにそれぞれの列をつくりにくい小さなスーパーでのこと。

一列にならんで空いた方から、というつもりらしい人がいたので、その後ろに並んでいたら、強引に列の前を横切って向かって左のレジの列を作ろうとした(ビシッとスーツを着た立派な体格の)中年男性がいた。丁度そのとき、左のレジが空いたので、私の前にならんでいた人は、左のレジに行き、私は右のレジへ。

そうしたら、その人、左のレジに行った人に、「割り込むなよ。一列に並んどるんかよ。(レジの列は別別だろう。空いてるとおもったから左にいったのに。という意味かと推測)」と小声でブツブツ文句を言っていた。その人、少量の買い物だったので直ぐにレジを抜けたのだけど、ずっとその後ろ姿を睨んでいた。

私は、つい、「割り込んだのはお前だろう。本来私の後ろを回って通らないといけないのに強引に前を横切っておいて、なにをいってるんだ。周りを見て判断せんか。いい身なりをしているが、周りが見えんとは、お前は子どもか。」と思ってしまった。

こういう人は、おそらく、一列表示にしていない店が悪いとか言い出すんだろうな、とも思う。小さなスーパーで、通路もやっとすれ違えるぐらい狭いんだから、客同士で周りみて判断するのが自然なんだけどね。

まあ、判断はいろいろだから好きに判断して好きに行動してもらっていいんだけど(私だってそうする)、世の中には、いい歳して、自分と(自分がそうだと認識した)ルールだけで生きていて、周りの人の判断を見ない(もしかすると、能力が欠如している)手合いがいるんだな、ということでした。

考えてみれば、自転車に乗っていて、前を人が通りそうなので止まって待ってあげても、減速もせずに私を追い越して走って行く自転車が大半だもんな、世の中、そんなもんなんだろうね。

価値観は変転する

おりづるらん

 

仕事先からの帰路、時間がたっぷりあったので『定石革命』芝野虎丸を熟読しました。(三度、目を通しました。)

   この△、漫然と辺を打つのはAI的には(=現在のプロ的には))「甘い。」ので、今は左下星から下辺向きの小ゲイマにしまるといった隅を大事にする打ち方をするのだとか、そういう話を、虎丸プロがまとめてくれている本です。(原理的にいえば、辺の価値が下がって、隅の価値があがってるということだそうです。)

感覚的には分かるような気がします。私の発想は昭和的で、この△にあまりネガティブでもないので、△や現代的な星からのしまりや、そのときどきの気分で選択してますが、ただ、昔から、△を自分の内から是非打ちたいと感じたというよりも、プロがそう打ってるのだから後の打ち方しだいなんだろうから、発展性があるってこういう感覚なんだろうな、という受け入れ方をしてたわけです。(そもそも、「星からしまる」という発想が否定されていましたしね。)


   ところで、(昭和の頃の)私の態度、今、プロがAIに接している態度と似てないか???ってふと思ってしまいました。自分ではよくわからないけど、自分より強い人(AI)がそういうのだから、そうなんだろう、って態度....。プロは、お気楽なアマの私とはちがって、そうなんだろう、ってところを「本当にそうか?」と突き詰めようとしますから、そこは全くちがうんですけど、なんか、出発点が似てるような。

 

   プロがアマチュア化した??そもそも「学ぶ」とはそういうこと??

木陰から路面電車の駅を

路面電車の駅

路面電車に初めて乗ったのはどこでだろうか。子どもの頃に遊びにいった岡山かなぁ。関西に出てから遊びにいった京都で(京福電鉄に?)路面電車みたいなのがあったような無かったような。

 

   ベタ読み(論理的にありうる手を片端から読む作業)を覚えたのは、詰め将棋を通してのことであった。指し将棋はほとんどしたことがなく(入門の時に祖父に遊んでもらったのもいれて、たぶん生涯で50局ぐらい)、詰め将棋をパズルとして楽しんだ。二〇歳中頃のある年、夏から秋にかけて、詰め将棋を一手詰め、三手詰め、五手詰め、七手詰め、九手詰めぐらいまで、順にそれぞれ200問ぐらい遊んだと思う。

   読む作業の遂行能力が低いままに、碁会所初段ぐらいまでなれてしまっていた囲碁で、ようやく本当の意味で囲碁を打ち出したのは、この夏が切っ掛けだったのだろうとおもう。まあ、その後に囲碁(詰め将棋も)10年ほど中断して、本格的に読む能力を鍛えはじめたのは40歳を越えてからであった。

   そのおかげで、読めない状態がどういう状態なのかを(部分的にではあれ)自覚的に把握できている。幼少の頃から囲碁を初めて、囲碁に適正があって本格的に強くなった人は、たぶん、このあたりの事情の把握がなかったり、弱かったり、甘かったりしていると思う。できないものはできないのだ。そして、できるようになっていく過程もそれなりに迷いが多い。大人になってから読む作業をできるようになるには、いろいろ壁がある。

沖の方から小雨が近寄ってくる

小雨近づく

 

 

   たかが親睦大会とはいえ、ルールがないと秩序が怪しくなる。だから、ルールがつくってある。だからといって、時計の使い方もよく分かっていない人が参加しているような親睦大会で、相手が時計を押すタイミングをうっかりしたからといって、ルールを楯に自分の勝ちだと騒ぐ人がいると、私は「げんなり」する。

   故意でもなく(時計の使い方がわかっておらず誤操作しただけ)、また、双方残り時間も多く、勝敗に直接的に影響しないルール違反なのははっきりしていた。さらに、周りから(ちなみに私の対局相手:チームメイトの情報では、関東のガチの競技大会で上位に行くような人)「許してやれや。」という声がかかっているのに全く聞く耳持たずだった。

   時計を止めて、正常な状態に戻して再開すればいいだけのことではないか、盤上で決着をつける(勝つ)気持ちはないのか(ないとすると、精神がへたれすぎる)とつい思ってしまい、今回は団体戦で他のメンバーに迷惑がかかるから、すぐに立ち去ることはしないけど、次の参加はないな、とまで思ってしまった。

   まあ、こんな神経(美意識?)では、大会の運営者は全く務まらないだろうし、友達の輪も広がってはいかないと思うけど、どうやらこれは、私にとっては、譲れない一線のようだ。

   ちなみに、主催者が準備した予備チーム(なにかの拍子に不参加チームが発生したときの控えチーム)の一人がそういう態度であったので、私の「げんなり」はとてもとても強かった。「げんなり」を超えて「怒気」が生まれかけていた。

   ルールは守ってもらわないといけないが、それとは別の話で、ルールで人を叩く行為は「切実な必要」がない限りやらないほうがいい。勿論、必要があれば当然私だってルールで人を叩く。なので、必要かどうかの判断が違ったというだけのことだが、私にはとても大事なことだ。

 

おまけ:私の対局の対局時計
   中盤の入り口あたりで、時計を押したときに針が動いてないことにふと気がついた。「うん?」とつぶやいたら、相手が時計を手に取って確認して、電池が入っていないことが分かった。「時計なしでうちませんか?」ともちかけて承諾してもらい対局を継続した。

   こういう状態が起き、こういう妥協のできるような親睦大会であっただけに....。

夏の蔓草

夏の蔓草

 

土:死活問題初級教室(7名/4問)
日:死活問題初級教室(5名/4問)
月:個別レッスン(1名)
火:個別レッスン(1名)、手筋中級教室(2名/8問)四子置かせて二局/勝ち、勝ち
水:互い先で一局/負け、死活中級教室(2名)
木:個別レッスン(2名)、死活問題初級教室(5名/5問)、二子置かせて二局/負け、勝ち
金:個別レッスン(1名)、同好会仲間でペア碁一局/勝ち

 

   マクロ機能を使って写真を撮っていると、ふと、子どもの頃には、こういうように見えていたのではなかろうか、と思うことがある。記憶にはなにも残っていないけど。

   小6のときに囲碁を覚えたのだと思うが、教えてくれた父が他界しているのでどうやって覚えたか確かめる術はない。その後、囲碁に熱中したわけでもないが離れてしまったのでもなく、なんとなく囲碁が近くにはある生活をして、20歳頃に雑誌の棋力認定で7級ぐらいだった。その頃、碁盤がどうみえていたのだろうか?
   これも記憶の彼方に消えていて推測する手がかりはない。

むくげ?

むくげ?

 

   このまえ、仕事で(日頃は使わない)iPad渡されて、アルファベット入力の操作に手間取っていたら、「キーボードの並びですよ。」と助言されたんですが、私にはまったく意味のない助言でした。Gを探してウロウロ、Aを探してウロウロでした。(ちなみにスマホは使っていません。ガラケーです。)

   その時思ったのは、「キイの位置を覚えているのは「10本の指」であって「人差し指」っじゃないんだな。(当然、「目」も覚えてない。)」ということでした。(経験からだけの我流ですが、キーボードのブライドタッチもどきができます。)

 

これって、囲碁の世界で時々言われる「(適切な着点は)指が覚えている。」ってやつと同じかも、とおもったのでした。

 

土:死活問題初級教室(7名/6問)、個別レッスン(1名)
日:死活問題初級教室(5名/8問)、個別レッスン(1名)
月:個別レッスン(1名)
火:個別レッスン(2名)、四子置かせて一局/勝ち
水:互い先で一局/勝ち、死活中級教室(2名)
木:個別レッスン(2名)、死活問題初級教室(5名/6問)、二子置かせて一局/勝ち
金:個別レッスン(1名)、同好会仲間でペア碁一局/勝ち